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アラサー男子がトラブル解決策についてまとめるブログ

マインドフルネスにおける自我と私の関係について

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こんにちは、小宮山です。

昨年で基礎を終えたマインドフルネスを今年からはジャンジャン実践していこうと思ったのですが

子どもと私と一緒に過ごす時間を確保して! 休日は大事!

ってな感じで嫁ブロックがかかってしまい、なかなか瞑想会に行って実践できない日々が続いています。

単純に瞑想するだけなんですけど

  • 考える癖
  • 事象の受け取り方の癖

が実感として明らかになっていくので、やってるだけで楽しいんですよね。

新しい知見が得られて、世界が広がっていくのってワクワクしませんか?

あんな感じです。

筆者はのめり込んでしまう癖があるので、家庭に縛られながら匍匐前進でコツコツやってくほうが平和なのかもしれません。

結婚する前は、とにかく人より先に行きたくて、生き急いでたなーと今更ながら思います。

自信がないことの裏返しでもあったんですけどね。。。

さて本日のエントリでは、マインドフルネスにおける自我と私の関係について解説します。

マインドフルネス業界にもいろんな流派があって、筆者は医療方面から入ったんですが

  • おおもとの大乗・小乗仏教
  • 曹洞宗・臨済宗などの禅

では「私」や「自己」という哲学的な概念に真っ向から問いをぶつけています。

なので哲学とリンクするんですが、これがとっても面白いのでご紹介いたします。

有心と無心のマインドフルネスについて

マインドフルネスは日常動作である

  • 歩く
  • 触れる
  • 呼吸する

などの動作をするたびに「~してる」と認識し続ける作業です。

ただ感じるだけ。

自分の感情を主体者としてではなく、第3者として見ることを要求されます。

この第3者として見るってのが曲者でして、見てるのは自分じゃんってのが普通の反応です。

アメリカで始まったマインドフルネスでは

「私  = 感情  = 走り回る子犬」

という発想で説明されていたようでして、感情が湧き出てきたら子犬を捕まえて落ち着かせていって、瞑想修行を続けた結果、あなたは落ち着いた子犬になりました。

めでたしめでたし・・・ってなメソッドだったようです。

このやり方は「有心のマインドフルネス」とよばれていて、今では効果に限界が見えたのでストップしているとのこと。

現在のマインドフルネスは、

「私 =  感情 = 子犬」

ではなく

「私 = 子犬が動き回る空間」

と認識して、子犬の動きを観察しなさいというスタンスに変わっています。

これを無心のマインドフルネスというんですが、これまた難しい。

ボディスキャンができるようになると分かってくる概念なんですが

  • 感じてるのは、やっぱり私でしょ?
  • 空間って言われてもねえ・・・

ってな印象を筆者も持ってました。

そんなときに先生が提示したのが「永井哲学」だったんですね。

永井均さんという方の哲学を読めば、無心のマインドフルネスの何たるかが実感できるよってことで。

無心とは何か?

永井さんは実存について、とても深い議論をしています。

私がそんざいしているというのは、ある特定の内容、特定の中身を持った人が存在しているということではなくて、そういう内容とは全く関係なく、なぜか端的に感じられる、端的に「これ」である生き物が一つだけある、ということなんですね。
それがだれであるかという中身には関係なく。
人間にはいろいろな心理状態が起こっていますが、それって他の人もみんな同じですよね。
他の人も皆そうなのに、どうして一人だけ現に私であるという極めて特殊な在り方をする奴がいるんでしょう?

「感情、内臓といったパーツを除外していっても残る何か = 私」

ってことなんですね。

何にもないけど、でも小宮山という人間は居る・・・的な。

これは言葉では説明しきれないですけど、感覚としてはみんな分かるのではないでしょうか。

亡くなった人は、確かになくなったけど近くにいるよね~的な感覚です。

つまり無心のマインドフルネスってのは、「私が! 私が!」ではなくて、中で起こってくるいろんな感情・思考に飲み込まれずに、ひたすらじっとして観察し続けることなんです。

ダライラマに並ぶ僧侶であるティクナットハンは、マインドフルネスで呼吸にフォーカスするときに

「呼吸を殺すな」

と述べています。

私が観察するという意識を持った途端に、自然な呼吸じゃなくなるようでは、マインドフルネスではないと。

言うは易く行うは難しですが、この入り口を間違えずに進めていかないと、マインドフルネスのご利益は得られません。

私って自我のことなんですけど、結局のところ、自我をスルーすることを意識して瞑想しないと、自我にどうしてもとらわれちゃうんで大脳新皮質を使っていくアップデートの段階にまで到達できないんですよ。

私とは何か?

「呼吸を殺さずに観る」作業について、もうすこし掘り下げていきましょう。

言語について考察した西洋哲学の巨人に、ウィトゲンシュタインという人がいます。

彼が私というものについて、チェスをつかって説明しています。

チェスっていろいろなルールに従ってゲームが成立していますが、あるとき誰かがチェスの1つの駒の上に白い紙で冠をかぶせました。

チェスを世界、冠を私もしくは無我と思ってくれってウィトゲンシュタインは言います。

冠なんてなくても世界は回っているし、法則も変わってない。

けれど冠が出現したことで、始めて駒の「存在」が認識できるようになった。

冠は駒の動きが分かるけど、まったく別の法則の世界に生きている。

チェスのルールに冠の規定はないから。

ただ居るだけ。

見るだけ。

冠は駒の動きを見ているけれど、そこに生まれる解釈がチェスのルールと一致しているとは限らない。

無心のマインドフルネスとは、まさにあるがままを見ることに集中する作業でもあるんです。

それでは本日のまとめです。

  • マインドフルネスのご利益は得るには、無心のマインドフルネスを習得しなければならない
  • 私とはチェスをしている場で、ふと駒の一つにかぶさった冠のようなものである
  • 無心とは私があるがままを見るのをやめて都合の良い解釈をするのを止めた状態のことを指す

では、また明日。

Ciao~。

〈仏教3.0〉を哲学する

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